しもべモーセが死んだ後、

神はモーセの従者である彼に言われた。

「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。

わたしはあなたを見放すことも見捨てることもしない。

強く、また雄々しくあれ」

くまばちのようだと恐れられていた彼の民は

アイの部族、ギベオンの部族たちを、剣を使わずに和を講じて降参させた。

アモリ人の5人の王たちは、裏切ったギベオンをよしと思わず言った、

「われわれはギベオンを撃ちましょう。

ギベオンはヨシュアに和を講じたからです」

5人の王はそのすべての軍勢を率いてのぼり、

ギベオンに向かって陣を取り、それを攻め入った。

彼は民を率いてギベオンの部族を助けにギルガルからのぼった。

もう、日が西の山に没しようとしていた。

神は彼に言った「さぁ、立って、攻め上りなさい」

彼はイスラエルの民の前で神に向かって真実に真に祈った。

「日よ、ギベオンの上にとどまれ、

月よ、アヤロンの谷にやすらえ」

民がその敵を打ち破る前まで、日はとどまり、月は動かなかった。

日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ1日であった。

時は1616年、ガリレオ•ガリレイは地動説を唱えた。

有罪判決をくだされた表向きの理由は、

太陽は動くものだと聖書に書かれ信じられていたからだ。

有罪判決から370年近くまで神学と科学は対立するようなストーリーが描かれた。

彼がいた3600年前には、

西に没する太陽がギベオンの上に止まり、

昇るはずの月がやすんだのだろうか。

およそ3400年前にパウロが書いたコリント人への第一の手紙がある

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。

しかしその時には顔と顔とを合わせて、見るであろう。

わたちの知るところは、今は一部分にすぎない。

しかしその時には、

わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」

鏡はおぼろげに見えるものだろうか。

日本では古墳時代

青銅鏡に近い鏡だったからおぼろげに見えただろう

宇宙の中心は地球であり天体は動くもの

と認識されていた。

地動説が唱えられたのは16世紀からだ。

これと同じく

彼の頃は

「地球中心で天体は動いている時代」だから

と聖書を読んでいれば

ガリレオ•ガリレイを有罪判決にはせず

400年間の血で血を争う科学との対立も無かったかも知れない。

いつの時代も、「自分中心で人間の認識違い」が争いを起こす。

これは真理だ。

彼が欲していたものは「時間」だった。

「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。

わたしはあなたを見放すことも見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ」

と、先代の指導者モーセの時から神がイスラエルに約束した言葉を

彼は命のように大切に思い、

「神様、どうか、どうか、わたしに時間をください。」

と強く願い求めた結果、

時間が彼の味方につく奇跡が起こったのだ。

神は天から敵の上に大石を降らし、

ヨシュアの民がつるぎをもって殺したものよりも、

雹に打たれて死んだもののほうが多かった。

そこで疑問に思うのが雹に打たれて人は死ぬ事があるのだろか。

本当に雹で人が死ぬのかという祈りに答えるかたちで、

イタリアで5〜7kgのサッカーボール程の雹が降って車がつぶれ、

人がけがをしたニュースが流れた。

このくらいの雹が彼の時代にも降ったのだろう、

雹は比喩ではなく雹だろう。

3600年前にも、

天気が味方につき、雹が降り、敵が倒れ、

時間を短縮して西の山に日が没する前に彼らは勝利を得た。

しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。

わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。

しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

その時が来た。

神様が完全に知っているように、

顔と顔を合わせたらはっきり見える鏡のように、

人間が完全に知る時が来た。

預言が成就され1999年、

雹は雹だと確信して「SUNSTOP」がもう一度生まれた。

神様が天気を変えてヨシュアに勝利をもたらした。

神様が計画しておいたカナンの地に入れ、立って攻め上れ、始まりが重要だ。

ヨシュアのように、どんな方法でやるか?が運命を左右する。

わたしは恩師から学んだこの真理とともに生き

そして、また

昨日から「SUNSTOP」の主人公を始められた人がいて

とても嬉しい。

つくば始音教会 MISUMI

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