「常識」を疑え

大学で、社会学を学んでいました。

社会学はどんな学問かというと、私が大学2年生の時に取っていた社会学の基本を学ぶ授業で、先生からこう教えていただきました。

「社会学は、”常識”を疑うことから始まる。君たちが今使っているその机は、当たり前のように机として認識されているけれど、もし僕が今これに飛び乗って歌い始めたら、この机はステージになる。」

また、あるサイトで、社会学の大学教授がこのようにおっしゃっていました。

「自分にとって当たり前のことが、他の人もそうだとは限りません。一つの現象でも、人によって見え方は変わります。社会学は、社会をさまざまな角度からとらえることで、人々の多様性を認め、多様な人々が生きやすい社会を模索する学問だと言えるでしょう。」

社会学は、正直、あまり就職に役立つ学問ではないかもしれません。私自身、社会学部卒というのが就職に役立ったという経験は未だ無いです笑

ただ、私が信仰を持つようになった大きな導き手が、この社会学でした。

冒頭の先生の話を聞いたのは、私がちょうど教会で聖書を学び始めたときのことです。

聖書を学んで、私が今まで解けなかった問題の答えを得ていっている喜びを感じながら、一方では、宗教にハマっていってしまうのではないかという怖さや、自分の人生の答えは人生経験をしながら作っていくものであって、聖書という偏った宗教の本で受けたものを答えにしていいのか、真実は何なんだろう、という拒否感もあり、葛藤をしていた時期でした。

友達にも散々聖書を学ぶのを反対されました。

その中で授業での話を聞いて、私はこう思いました。

「日本の大多数の人が正しいと信じていることが、本当に正しくて真実だとは限らないんだ。真実は、多数決で決まるものではないんだ。私にとっての真実は何なのか、聖書にあるのか、実際に見て聞いて判断しよう。」

私が教会に行くことを止めてくれた人達は、私のことを心配して止めてくれたことだけれど、実際に聖書を学び、教会へ行ってみたわけではありません。また、教会で聖書を学んだ人だったとしても、その人と私は違う人間で、感じ方も違います。

だから、判断は、自分がするものだ。

これが世の中では普通だから、と言われることが本当に正しいことかと言ったら、そうでもないわけです。

私が見て聞いて体験してみた結果、「この教会で聖書を学びながら、その学んだことを使って人生を生きていくこと」は、私にとって正しいことだと感じたし、そのように生きていきたいと思える道でした。

実は、元々は心理学を学びたかったけれど、心理学部にはどこも受かることができず、なぜか1つだけ受けた社会学部に合格しました。神様が私以上に私のことを良くご存知で導いて下さったと思います。

学問が人生の助けになりました。

だから、私の子供達にも、学びを大切にしてもらいたいと思っています。

知らないうちに囚われてしまっている、自分の常識、社会の常識。それを疑って深く考察することは、とても大事なことですね。

つくば始音教会 いのちっち

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