幸せに生きる義務

あえて誰かに言うことではないし、ブログに書くテーマではないかなと思っていたのですが、最近、有名人の方の自殺(自死)報道が多く…、とても心が痛く、誰かの・何かの助けになるならと思って書きます。

 

 

私は、いわゆる自死遺族です。

23歳の時に、私の父と母は、心中自殺で亡くなりました。

また、28歳の時、父の弟にあたる叔父も、彼らを追従するように自殺で亡くなっています。

 

 

なぜ、自ら命を絶ってしまったのか/絶ってしまうのか…

何かできる事はなかったのか…

生きる道はなかったのか…

どんな風な助けがあったら、生き続けることができていたのか…

頼れるところ・人・社会資源はなかったのか…

弱いと、病気だと、生きていけないのか…

お金を稼げないと、生きていけないのか… 

 etc…

 

 

比較的多くの近親者を自殺で亡くし、こう言ったことが、私のライフテーマになりました。

そして、今の私の仕事への動機にもつながっています。

 

  

「自殺(自死)は防がれるべき事柄」である事は、みんなが納得する事だと思いたいのですが…、

なぜ防がれるべきかといえば、

「生きてさえいれば、幸せを感じる日が戻ってきていたかもしれない事」

「残された人に大きな影響がある事」

「自殺(自死)の事実を知った誰かにとって、自殺(自死)という選択肢を、より身近にさせてしまう・背中を押してしまう事」

(社会的に有名な方の場合だと、「ウェルテル効果」などと呼ばれる自殺(自死)の連鎖反応が起きてしまう…)

など、様々あると思いますが、

 

私が思う、「自殺(自死)してはいけない1番の理由」は、

ご本人の人生の終極が、苦しみと悲しみ、絶望で終わってしまうからです。

 

信仰者ならではの、「永遠な生を考える」という視点も、もちろんありますが、

「苦しみからの最終脱出手段」「救いへの絶叫」であるはずの「自殺(自死)」が、結局のところ、果たして、本当の救いであるのか…

もし、そうでないならば….

 

 

 

 

「追い詰められた結果の、最後」

だからこそ、

追い詰められる前に、何かできないか…

 

死を選ばざるを得ないほどの苦しみが、どれほどのものか、ご本人にしか語り得ないし、わかり得ないけれど、

少しでも、気持ちを楽にできるのなら。

少しでも、生きやすくなるのなら。

私は、最後の決断を下す前に、いや、そんな究極的な状況になってしまう前に、力になりたいです。

 

「隣人を愛しなさい」

という、イエス様の言葉の通りだと思います。

私のそばにいる人なら、私が知っているから。

どこかいつもと違っていたら、気がついてあげられるから…

 

直接会えない誰かのために、このブログは書かれるけれど、

直接会って話ができる、そばにいる人を、できうる限り、大切にしたいと思っています。

でも、まだまだ、誰かのためにちゃんと助けになれる自分ではないことも、自覚しています。

「自分の線を超えてすることが、寛容だ」と、牧師先生もおっしゃっていましたが、私は、全然まだまだです。

私は、まだまだ、弱く、非力です。

 

 

「人には、幸せになる権利がある」

と言われたりしますが、

「幸せになる義務」があると、私は考えています。

どんな人も、幸せにならなければならない、と思っています。

 

 

一方、

私は、メンタルの不安定さやうつ傾向、たまに、希死念慮と呼ばれる感情に苛まれることがあり、自滅的な考え方をしてしまったりします。

そうではなく、自分を幸せにする考え方を、採用していく事が、私にとってまだまだ大きな課題だと感じ。

自分からして、「幸せに生きる」ことを放棄していては、説得力もありませんが、こんな私であっても、誰かに、幸せに生きることを諦めないで欲しいと思っています。

 

 

 

あなたも私も、幸せになるために生まれてきたから。

あなたも私も、愛されるために生まれてきたから。

苦しみの沼から抜け出して、愛の海に、身を投じて。

愛されることを拒否しないで。

生きることを、どうか手放さないで。

 

本当に、たくさんたくさん、自分を愛して抱きしめ、認めてあげて欲しいです。

天国は、あなた一人から始まるから。

あなたを世界一、大切に、幸せにしてあげて欲しいです。

 

 

 

つくば始音教会 ゆう

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