つくば始音教会の ゆう です。

タイトルがとても堅苦しいですが、最近学んだこと・考えたことを書いてみます。

 

 

「尊厳」という言葉は、みんな、聞いたことがあると思います。

辞書的には、「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。」

(コトバンク デジタル大辞泉より引用 https://kotobank.jp/word/尊厳-555826)

とのことで、「人間の尊厳を守る」などの用例で用いられ、

また、

「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」

と明記された「世界人権宣言(第1条)」をはじめとして、日本の国内法や職業倫理を定めた綱領においても、よくに目にする言葉です。

 

一個人が「他の何ものとも替えられない、かけがえのない大切な存在」であることを認め、

「これができる」「あれができる」という能力を基準とした価値判断によらず、

「ここでは、昔からこれが良いと決まってる。(これができないやつはダメだ。)」などの社会的、文化的、歴史的な価値観(背景)にも左右されず、

未来永劫価値づけられるべき「究極的な価値」、つまり、「存在していること自体の価値(beingの価値)」

として、個人の尊厳は尊重されるべきものとされます。

 

一人ひとりが、尊厳を保有する一個人であることを自覚し、認め合い、互いが互いを尊重しあう社会を作ることは、地球上、どの国や地域でも目指され、実現が望まれていることと思いますが、

私自身は、尊厳というものを、よくわからないまま、大人になったと感じています。

そして、大人になった今、

「尊厳」

という言葉を学び直した時、これが非常に大切な概念であると、改めて感じるようになりました。

(もちろん、字面を学んだからと言って、まだまだ表面的なことですが。)

 

 

と言うのも、

私は以前、私以外の他の誰かは「大切な、価値ある存在」として認められるけれども、「自分」は、生きている意味がない無益な存在であると考えていたことが影響しています。

 

そのように考えるに至った経緯や出来事は、様々にありましたが、

一番は、「自分の価値」を、深いところで認められなかったからだったと、今、振り返ると、思います。

 

「〇〇ができる自分なら、価値がある。」

「できなければ、私が認めてもらえる場所がない。」

などと、ちょっと(かなり?)、追い詰められていました。

 

家の状況、自分の勉学の状況、人間関係、私という存在の情けなさ、いろいろなことを悩んで、自分一人で頭を抱えていましたが、

「自分で」「自分の」「存在価値」を手探りして探した時、その実感を与えてくれるものは、自分に付随すると感じた「能力」と、それに応じて与えられた「評価」でした。

正直、それ以外に、実感の持てる評価軸が見当たらなかったです。

 

なんだか、とても、虚しかったです。

自分には、何もない。

底のない落とし穴の中にどんどん落ちていくような、そんな虚しさと恐怖でした。

 

 

そんな中、

「ゆう は価値がある」

と、言ってくれる人と出会いました。

自己否定文化に馴染んでしまっていた私は、異文化との接触に、少なからず、カルチャーショックを受けました。

「拠って立つ前提が、そもそも違っている…」という印象で、戸惑いも多々ありました。

 

はじめは信じられず、そんなことを言われても本当かどうかわからないし、怖いものだから、石橋を叩いて橋を渡るように、恐る恐る確かめては、また、古巣へ逃げ戻りました。

しかし、そんなことを繰り返していたら、だんだん、「愛」というものが実在していると感じるようになりました。

そして、繰り返し言われるものだから、もはや、それに洗脳されたと言っても良いのかもしれません。

「私は価値がある」と認めるのに、長〜い長〜い年月がかかりましたが、神様と、神様が使われた人たちの根気強さと愛が、私の頑なさに、勝ったようです。

 

 

「あなたは価値があると、神様がおっしゃってくださる。」

「私を必要としてくれる存在が、確実にいる。」

そのことは、私の存在の根底を支えるメッセージとなりました。

卑屈かもしれませんが、私のことを嫌いはしても、認める存在なんていないと思っていたから、これは、驚きの事実となりました。

神様が、人を通して教えてくださらなかったなら、知りえないことでした。

 

 

タイトルにした「尊厳の外在性」という言葉は、最近学んだ言葉ですが、私にとって、示唆深い言葉です。(それで、タイトルにしてしまいました。)

 

「もし、自分一人で生きていたら、自分の価値や尊厳を見つけることができない。社会の中の関係において、見出され、認められる価値が、私の、そして、まわりのすべての人の尊厳。」

ということが、実感を持って感じられるからです。

 

「私の価値を認め続けてくれる存在によって、私が価値付けられている。」

「そして、それは、私が私であるという理由で、認められている。」

そのことの大きさは、計り知れないと思います。

 

私は、

「私は、尊厳を有した一個人である」という自認と、

「誰もが、私と同じように尊厳を持ったかけがえのない存在である」という事実を、忘れたくないと、願っています。

そして、社会に存在する一人の人間として、その尊厳を守るにふさわしい行いをしたいと願っています。

(そして今の自分では全然足りないと思うので、今は、勉学に励みたいと思います。)

 

 

人の存在価値を決めるのは、人ではないけれども、

人に存在価値を感じさせるのは、目に見える人であることも、覚えていかなければならないと感じています。

 

 

つくば始音教会 ゆう

 

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