前髪の分け目に関するドクサ

大したことではありませんが、最近少し考えたことを書きます。

 

タイトルは、ちょっとカッコつけて書いただけです^^;

 

意味がわかりにくいと思いますが、「ドクサ(doxa)」とは、ギリシャ語で、「思いこみ」を意味しています。

パルメニデスやプラトンなどの、古代のギリシャ哲学者たちは、「永遠普遍の真実在に対する知識エピステーメ(episteme))」というものを探究していましたが、一段階下の、感覚等によって得られる知識、根拠のない主観的信念のことを、「ドクサ(憶見、思いこみ)」と対置し、考察していたそうです。

(ちなみに、蛇足ですが、エピステーメ(episteme)は、ラテン語ではscientiaと表され、英語でいうscience(科学)の語源になっています。)

 

永遠普遍の真実在、真理を探究し知ろうとする人間の指向性は、古代から連綿と続いていますが、「有限であるはずの人間が、永遠を思うこと」は、時代や地域を超えた普遍的な事象で、聖書にも「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:11)と書かれていて、興味深いです。

人が、各人固有の思考や経験、癖、体質、脳、身体などを持ちあわせているからには、「固有性」、いわゆる個性が厳然として存在しており、自身の固有性に基づく各人ごとの認識が実在し、

また、人が「社会的存在」であることを免れ得ないからこそ、社会・群衆・時代的な「思いこみ」から離れて存在することができないことも事実であり、かつ、普遍的事象であることからしても、

「自分の認識観に対する内省力」や、「社会・時勢を批判・検討する力」が必要であることも、理性では、わかると思います。

 

しかし、実際、客観的に自分や社会を分析し考察することは、難しい面がありますね。

私個人的には、非常に身近なところでは、自分にとっての「主観的事実」が「真理」のようになってしまうことが、多々あり…、自分自身の「思いこみ」や「価値観」「常識」を原因とする人間関係への葛藤を自覚することがあります。

「こうあるべきなのに」とか、「こうしてくれてもいいのに」とかいう価値観から、「この人はこういう人なのかな」という憶測が働いちゃったり。

ドクサの典型例かなあ、、ははは^^;;;

私の内側の、言語化し切れていない無意識の「思い」や「欲求」や「価値観」が、「ドクサ」と言われるような思いこみを醸成しやすくしているのかな、と考えます。

 

パスカルは、思考能力を有し、自身の惨めさを自覚しうる存在である人間を、その思考能力の故に「惨め」であると言いましたが、しかしながら、理性の力があるからこそ、「ドクサ」という概念に光を当て、再検討することができることも、人間の力だと感じます。

人間のことを、「ホモ・サピエンス(考える人)」ともよく表現しますが、人間の固有性は、この部分にあることは事実でしょう。

 

一方、

「真実在」というものは、指向はできても、人間の理性で果たして到達しうるものなのか…。

私は、神様から与えられ得ない限り、真に真実であるものは獲得し得ないと思いますが、求めてこそ、得られる事柄であり、求めてこそ、価値が感じられるからこそ、真に真実であるものごとを、求め考えることは、大変に有意義だと感じます。

また、たいそうなことを言わなくても、「自分の思い込み」を自覚することを実践することが、大きな一歩であるからこそ、自分自身の「ドクサ」というものに、光を当てる作業を、して行きたいと思う所存です。

 

「新しく」

と、私たちの教会の牧師先生を通して、今年の標語が発表されました。

掲題の話題に戻るなら、私は、前髪を、自分の右側からしか分けられない(髪の毛の生え方的にも、見栄え的にも)と思い込んで、高校生の頃から、ずっと右側で分けていました。

でも、何となく、昨年年末に、左に変えてみたら、意外と、いい感じに収まっちゃって。

高校生の時に、何回か、左分けに挑戦しましたが、挫折した経験があったので、右でしか分けれないと思い込んでいましたが、昨年末に、真なる事象ではなかったと発覚しました。

あれ?^^;

これは、小さなことですが、

生活の中の一つ一つで、新しくすることがあるとおっしゃいましたので、こんな風に、小さなことから自覚的に変化させて、面白みのある年にしたいなと思います。

 

個人的には、自分のためでもありますが、仕事の質を上げるためにも、まずは、自分の自覚する「葛藤」を頼りに、自分自身の「ドクサ(思い込み)」の検討・内省を、それが内観される機会に応じて取り組みたいところです。

 

つくば始音教会 ゆう

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