知能を下さった神様の祝福と、その先

なんとなく感じたことを書きます。

 

今日、散歩をしながら ふと 思ったのですが、人間に「知能」を与えて下さった神様の御心はなんだろう…と思いました。

散歩する前には、家で、社会調査に関する冊子を読んでいて、それが、よくわからないような・わかるような、(多分わかってないけど)そんなだけど、「面白い」と感じたのですが、

「面白い」と感じることができる能力を下さったことは、神様からの大きな「祝福」だと感じました。

知的な世界というものが、私の知らない領域にまで、広大無偏に広がっている。

未知の世界があって、面白いものが眠っている。

おおお〜!

そんな感覚です。

 

岩波文庫の後書きっぽいところ、「読書子に寄す」に、

「真理は万人によって求められることを自ら欲し、」

と、書かれていますが、真理も、全ての人から知られることを望んでいる、というのは、私的にも真理であると思っています。(この文章は、個人的に結構好きです。)

  

「知能」談義?に戻ると、

「面白い」と感じるためには、「知能」が必要で、

「真理が求められる」ためにも、もちろん「知能」が前提条件。

「知能」という条件があるからこそ、世界を「認識」して、我がものとして「了解」することができる。

経験し、記憶や知恵として蓄積することが可能である。(おお)

単なる知識の累積だけでなく、その知識の活用方法や、これに基づいた発展系・応用された何かを発想し作り出すことができるし(すげえ)、

その活用においても、倫理や道徳といった発想を得て、人倫の道を理解し守ることであるとか、現在だけではない過去や未来を考えた発想をすることも「できる」。

なんかすごいな〜 と思いました。 

(注意:私は、「知能」を万能であると崇めているのではないです。センス・オブ・ワンダー的な感覚で書いています。)

 

そして、この「知能」を人間にあらかじめインプットし、創った創造主神様の御心はなんだろう、と思いました。

 

「知能」故に、

いいこと・悪いこと、両方できる可能性があるし、

「その時点の善」であっても、未来において「結果的な悪」を生み出す可能性もある。

 

こう書いていると、「知能」の有効活用には、倫理観が絶対的に必要であると感じずにはいられませんが、

果たして、倫理観とは何か…。

難しいけれど、いつの時代でも考え続けて、生活の中で具体的に守るべき事柄。

 

知識の初め・根幹が、

「神様を畏れること」

だからこそ、

やはり、神様の愛や真実さ、正しさ、清さ、誠実さ、知恵、知識、

さまざまな良いもの、神様の価値観や倫理観を学ぶことが、「知能」を与えられた人間に対する責任であるように思いました。

それにはやはり、人間の考えの小ささを知り、認め、神様の考えを学ぶことがスタートである、と感じました。

(つい、自分の考えやこれまでの慣習に従ってしまうけれど。)

(どれだけ経験値があっても、無条件、神様の考えに従える牧師先生は、だからすごい。)

 

人類社会というものが、特に技術において、継続的・漸進的に発達してきたことを鑑みると、

今後も発達していくことは容易に想像できますが、

神様は、この発達の先に、どんな未来を描いていらっしゃるのかな、

と、ふと、思います。

(私の肉体は、死んでいるけれど、神様は、どんな未来ををみているのかな。)

 

進歩史観的な考えかもしれず、これに関してはさまざま意見があるかも?しれませんが、

「日々新しくされる神様」が導かれる地球世界が、これからどのように変化するのか、単純に興味深いです。

(そして私も、そこに関与する責任がある。)

 

(*)「知能」という単語を簡単に使いましたが、認識論哲学や心理学などにおける語の歴史を踏まえた上での正しい言葉のチョイスとか、何も考えないで書いてます。直感的に「知能」という語を選んでます。悪しからず。。

 

つくば始音教会 ゆう

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