轢かれてしまった猫

つくば始音教会の ゆう です。

つい先日あったことを書きます。

 

先週の金曜日、職場からの帰宅途中の出来事です。

 

私は、職場と家があまりにも近すぎるので、大体、徒歩通勤をしているんですが、徒歩で帰宅中、道路に、轢かれてしまった猫が横たわっていました。

残念にも、運悪く、車に轢かれて死んでしまったようです…。

 

大通りから一本入ったところなので、車の通りは激しくありませんでしたが、このまま放置すると、また、車に轢かれてしまう可能性があるし、道路の真ん中にいたので、車も、通るに通れなそうでした。(バックして引き返した車も。)

そして、何故か、猫ちゃんのすぐ近くに、小さいライトが光っていて、猫ちゃんを照らしていました。

私は、「なんでだろう」と不思議でしたが、そのライトのおかげで、車は、猫の存在に気がついて、道を引き返せていました。

 

私は、このままじゃ良くないなと思って、猫ちゃんのを抱っこして移動してあげようと思い、猫ちゃんに近づきましたが、そしたら、(そういえば)すぐそばに立っていた若い青年が近づいて来て、「どうしましょう…」と、本当に震えながら、悲しそうに、話しかけてきてくれました。

聞くと、彼は、轢かれてしまった まさにその瞬間は見なかったそうですが、轢かれてしまった猫ちゃんに出会い、「触れない…」「どうしよう…」という気持ちで、5分ほど、固まって、その場所から離れられず、せめて猫ちゃんの存在を周りに知らせようと、乗っていた自転車のライトを取り外して、猫ちゃんのすぐ脇に置いて、見守っていたそうでした。

 

  

死んでしまった動物に触れることに、抵抗がある人は、一定数いるのではないかな、と想像します。

私は、10代の頃は、「怖い」・「汚い」と感じて触れませんでしたが、年の功でしょうか、20代をすぎ、30代に入って、人や動物の生き死にに出くわした経験が増えるに従い、そこにいる息を引き取った存在は、「少し前まで、生きて動いていた」し、「怖いもの」ではなく、「身近な存在」であると感じるようになり、死んだ動物や人に触れることに関して、そこまで強い抵抗感や拒否感を感じなくなりました。

福祉職で働いていますが、生きた人との生々しい触れ合いや関わりの経験が多くなるにつれて、「死んでしまった対象への恐怖」よりも、「命への愛おしさ」の方が強くなったから、というのも、一つ、あると思います。

 

 

その青年は、22歳の大学生でしたが、猫ちゃんを「触れなかった自分」「何もしてあげられなかった自分」のことを責めていました。「どうしても触れなかった…」と。

なので、私が猫ちゃんを抱っこしたら、「ありがとうございます…」と、お礼を言われました。

触ったら、まだ暖かくて、ついさっきまで生きていたのがわかりました。

「轢かれてしまって、とても痛かったろうね…。かわいそうだね…。」

と、その子と話をしました。

ぽたぽたと血が滴り、道路や、私の手を染めました。

 

 

どこかにただ「ぽん」と置いてあげたのでは、無残にもカラスに食べられてしまうだろうから、猫ちゃんをどこに埋めてあげたら良いかなあ…と、その子と一緒にあたりを見回しました。

そして、結局、歩道の脇にある、街路樹のそばの土の中に埋めてあげることにしました。

 

柔らかい土ではなく、小さな篠が地中に根を張っていたこともあり、掘るのも一苦労でしたが、その子は、自分の手で「ガシガシガシガシ….」と、とても一生懸命に掘っていました。

「触れなかった自分」に情けなさを感じていたようで、終始、声を震わせながら会話をしてくれていましたが、土を掘ることに関しては、「これなら自分にもできる」と、本当に懸命に、素手で土を掘ってくれました。

(私は、近くに落ちていた2メートル近い、ボロボロの雨どい?のようなもので「ガツガツ」と掘りましたが、その子の方がよっぽど早く深く掘ってくれていました。)

結局、深さ10センチ程度まで掘ったところで、その猫ちゃんを、埋めてあげることにしました。

 

その段になった時、その子は、自ら、猫ちゃんを抱っこして、自分で掘った溝の中に入れてあげていました。 

彼自身の中の「善」や「道徳観」、「良心」に背いて、自分の弱さに負けたままでいたくなかったのかな。

「触れなかった自分」「ちゃんとしてあげられなかった自分」のままだと感じて、後悔したくなかったのかな。

  

その子は、「もう22歳なのに…。」と、自分を、年齢不相応だと感じて、自信を持てない様子がありましたが、一匹の猫の死に出くわして、これだけ心を痛めて、悲しく震えることができる繊細な心を持っていること自体、私は、とても誠実で、素晴らしいことだと思いました。

猫が死んでいるのを見て、そしらぬ顔で素通りすることもできたのに、彼は、その場を離れなかった。離れられなかった。

優しい心の持ち主だと、とても感じました。

 

猫ちゃんを埋めてあげた後、その子は、無言で祈っていました。

誰に、祈っていたのかな。

何を、祈っていたのかな。

 

 

命が死んでしまうことは、とても悲しく、哀れなことだけれども、一匹の猫の死を悼み、悲しむことができる繊細な心を持つことの大事さを、感じる出来事でした。

   

衝撃、悲しみ、戸惑い、躊躇、自責、拒否感…

死に際して、様々な感情が入り乱れるけれど、自分の心の動きに誠実に、倫理観から逃げずに、ちゃんと向き合おうとしていた若い青年から、学ぶことが多いと感じます。

  

 

つくば始音教会 ゆう

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