あなたの声が聞きたい

神様が過去してくださったことを思い起こしていたら、思い出したことがあるので書きます。

 

昔私は、精神的にも信仰的にも、非常に調子の悪い人でした。(今も「どうかな?^^;」と思いますが、今よりずっとよくなかったです。)

生きていること自体が辛すぎて、毎日が苦しみの連続でした。

なんというのか、冷たい炎に焼かれて、挫折と孤独のうちにどうにかなってしまいそうな気がしましていました。

 

そんな状態だったので、教会へ行き、礼拝に参加することも、とても苦痛でなりませんでした。

 

礼拝の説教では、

「こうしなければならない」

「こうでなければならない」

という長〜い話をとにかく聞く感じがあって、「そうであるべきだと頭では思うけれど、心がついて行かない…」という感じで、とにかく、何もかもが負担でした。

また、牧師先生は説教で一体何を言っているのかわからない…(意味が理解できない…)ということもあり、苦手意識が募りました。

さらに、教会へ行き礼拝が終わった後の「自由時間(交流の時間?)」が大の苦手で、輪に入れず、自分の居場所が見つけられず、泣いて逃げ帰ることもありました^^;

周りの姉妹は輝いて見えるけれど、自分ばかりが惨めに思えました。

「あの人は神様から愛されているのだろう。でも自分は愛される要素が何もない。」

そんな風に思いました。

努力していない自分が悪いし、自業自得だけど。礼拝に行くことも、姉妹に会うことも、全てが苦痛でした。

だから、教会に行きたくなかったです。

でも、そうすると、私には、本当に行き場がありませんでした。

どこにも救いがありませんでした。

 

神様がいないと思うと絶望だったし、神様を認めたくてもどのように認めて良いのかわかりませんでした。

 

恥ずかしい話です。

20歳前後の時の話です。

 

帰れるところもなく、頼れる場所もない。安心できる場所がどこにもない。

当時の私は、そんな状態でした。

 

実家の父と母も、心身が弱く、病床に伏していたので、自分を含めて、元気な人がおらず、

父と母を力付けてあげたくて、「自分は元気に頑張っている。心配しないで。」と知らせを送りたかったけれど、そうできるパワーもなく、そう言える根拠も自分の中にはなく、どうにもなりませんでした。

 

「自分のせいで、父と母は病気になってしまった。」

「私のわがまま(=経済的な余裕もないのに、大学に行きたいと言ってしまったこと)に付き合わせたから、体を壊させてしまった。」

「それなのに、自分はここで、何もできていない…」

そんな自責感も抱いていました。

  

 

自信もなく、対人恐怖(社会不安)で、スーパーのレジを通過することも苦痛でした。

レジの人とのちょっとしたコミュニケーション、代金の精算時に、客の私が現金を出し終わって「これでいいです。」というサインを送ることも、非常に苦しかったです。

最近でこそ、人と目を合わせられるようになってきましたが、昔は、誰かと目を合わせることも、「ずっと息を止め続けなければならない」ことのように難しい作業でした。

アパートの2階へ階段で上がるだけで疲弊してしまって、「一日ずっと寝て過ごせるならどれだけ良いか…」と考えながらも、「何もできていない自分」が同世代のみんなから取り残されるばかりな気がして、せっかく大学に来たのに、何事も究めることのできない自分に焦りを強く抱きました。

家事もまともにできず、お風呂もまともに入れない。そんな感じでもあり。

 

就職も氷河期。こんな自分を雇ってくれるところなんてないだろう…。とも思いました。

 

どこにも希望がありませんでした。あるのは、自分に対する絶望と焦りばかりだったと思います。

  

なんだか全てがどん底。

今思うと、どうやって生きていたのか、不思議です。

 

 

その状態から脱する一つの転機になったのは、ある霊感を受けたことです。

 

相変わらず、調子が悪い私は、なんとか礼拝に行きましたが、やはり調子が悪い。

礼拝につきものの「讃美」することも、声を出すこと自体、非常に苦痛でした。なんせ、心に喜びがないし力もないのに、どんな歌も心を込めて歌えないと感じていました。歌うとしても、ただ字面を追うだけのように思われ、虚しく、苦しい作業でした。

そんな最中、心にメッセージが届きました。

  

「あなたの声が聞きたい」

 

そんな風に言われたことは、人生で、一度もなかったと思います。

けっこう、ハッとしました。

そのように心に感動を覚えて、その時、私は、「自分の声で」歌うように意識を変えることができました。

「誰かのように歌わなくてもいい。」

「神様に、自分の声を届ければいい。」

そんな風に、感じました。

 

単純に、そんな風に言ってもらえて、嬉しかったです。

 

自分のことを、自分でもどうでもいいと思っていたけれど、「私の声を聞きたいと言ってくれる存在がいる」と実感したこの体験は、私にとって、転機になりました。

 

「私は、歌ってもいい」

そう思えました。

 

讃美だけでなく、当時、祈ることも、正直、のれんに腕押し、ぬかに釘打ちのような気がして、空虚な作業だと感じていました。

でも、「あなたの声が聞きたい」と言ってくれる存在がいる。私の声を聞いてくれる存在がいる。

そう思うと、祈ってみよう。と思えるようになりました。

「あなたは、どう思うの?」

そのことを聞きたいと思ってくださっている存在がいると、感じられたので。

 

極端な言い方かもしれないですが、人生で、「私がどう思っているのか」を気にしてくれる人は、あまり周りにいなかったと感じていたので、私の言葉に関心を持ってくれる存在が、すごく意外でした。

過去の体験からも、「私は、自分の中にちゃんとした意見もないし、自信もないし、人から見下され、蔑まれることはあるとしても、尊重されることはない人間だ。」と感じてしまっていたので、まさか、私の声や意見に関心を寄せてくれる存在がいるなんて、目からウロコでした。

だから、

「あなたは、本当はどう思うの?」

そんなことを聞いてくれるなんて、とてもびっくりでした。

 

 

「自分の気持ちや意見がわからない。自分が何を感じているのかわからない。」

というのは、昔からの私の病気?苦手分野で、まだまだ苦労していますが、

本音を表現してもいい場所になってくださった神様、

むしろ、本音でないなら届かず、通じ合えない神様の前に、

真実な言葉と心を注ぎ出す自分であるよう、たとえ最初から完璧でなくても、情けなくても、少しずつでも、小さな努力を重ねていくべきであると、改めて感じています。

 

 

つくば始音教会 ゆう

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